釣 考  = 徒然なるままに = 

竿・糸(綸)・浮子・錘(沈)・鉤・餌。これらを釣りの六物と言います。
これらを如何に用いるかという事に各人の個性があり、各人の拘りが発生する。
それは所詮釣り気質というものの反映でもあり、只管信念として全うし、自己の内で
極める事が美徳なるも、悲しいかな、往々にしてそれを自慢し、己の基準で以て他を
判断したくなる事は釣り人の性なのかも知れず、決して良い事であるとは言えないものの、
斯様な釣り気質というものが釣りをするにあたっての原動力となっている事も事実であり、
しかも自己の釣り哲学を築く事は、永く釣りという趣味を続ける上では不可欠な要素だ
とも言えます。
これは決して善悪の問題ではなく、しかし注意しなければならないのは自分の基準のみで
人と接し、人を批評してしまいがちな事です。自己顕示は個性の主張とも言えるが、
自己顕示欲は自分を自分で以て孤立無援の世界に導きかねません。釣り気質、釣り哲学は
何れも「我」です。趣味の継続や向上の為には「我」は不可欠な因子ですが、「我」の
意味を履き違えて出し処を誤らないように注意が必要です。信念は決して絶やさないものの、
奢らず悠然と構えた釣り人こそが「釣り師」なのだと思いますし、自分の理想とするところ
であります。

幸田露伴の言葉に「釣具は奢侈(しゃし)ならざるかぎり精良なるを用ふべし、決して下劣
粗悪なるを用ふるなかれ」というのがあります。「釣具は身分不相応な出費で無い限りは
優れたものを用いるべきであり、決して低品質で粗悪なものは用いてはならない」という
意味です。趣味の浪費で身上をはたくなどは愚の骨頂であり、趣味とは身の丈で楽しむべき
ものだと思いますが、しかし趣味とは人生を謳歌する為の潤滑油として重要な位置を占め
ますから、身の丈の範囲の中で多少の贅沢はしたいのです。これが釣りを続けるための
要素にもなると思うのです。身の丈、と言ってもその程度は人それぞれ、要は現在所持する
お金では若干手が届かないのだけれども、もう少し辛抱して貯金でもすれば手が届く、
というものを手に入れるべきだと思うのです。それによって持つ喜びが生まれ、愛着心が
湧き、大切にする心が生まれ、ひいては釣りに対する姿勢も変わると思うのです。それが
興味を趣味の域に高める事にも繋がると思うのです。安物買いの銭失いに成らないためにも、
少々良いものを手にする事が結果的には得だと思うのです。
で、その魚釣り、一体何が面白いのかと言う事ですが、明治から昭和初期にかけての文化人
あった石井研堂という人が、「単に魚のみを多く獲んことを望むべからず、興趣多きを

望むべし。釣遊の目的は、素より魚を獲るにあれども、真の目的物は、魚其の物に非ずして、
之を釣る興趣にあり。」と書いています。先般亡くなった服部名人こと、服部善郎さんも
「釣りは漁ではないので、たくさん釣ることを良しとしてはいけません。魚とのかけひき
する時間を楽しむ、それが近代の釣りです」と仰っている。更に時代は遡り、唐の時代の
詩家張志和にいたっては「釣りは魚を釣るのが目的ではなく、釣趣を釣るのが目的である」
言って、なんと鉤に餌をつけなかった。ここまで来ればもはや禅問答のような世界ですが、

何れにせよ、魚釣りは「遊漁」ですので遊びの部分が主であります。江戸時代後期から発展
した江戸前の釣りというのは、正に釣趣の世界であり、その発展は釣諏の発展と言えるとも

思います。
私は滋賀県大津市で生まれ育ちました。ひと山越えれば京都市という、京文化の影響を色濃く
受けた土地で生まれ育った事もあり、永らく東京(江戸)という新興都市の文化圏に馴染めず、
寧ろ軽蔑する傾向にさえありました。その意識は実はいまだに完全に払拭されてはいないの
ですが、釣りに関してはすんなり受入れる事が出来、それどころか、江戸前の釣りというもの
に自らを共振させ、何とか体現しようと努めているのだから不思議なものです。
ところで、一体何が釣趣なのかというのは愚問です。そもそも「趣」とは非常に抽象的であり、
広辞苑による幾種かの解釈の中で、「しみじみとしたあじわい」「おもしろみ」というものに
該当しますがこれとて曖昧で、敢えて一言で言うならば、「風情」というものが一番近いの
ではないかと思い、風情を広辞苑で引くと「おもむき・あじわい」と有る。こりゃ堂堂巡り
ですね。大凡概念的、情緒的な意味であるゆえ、明確に定義づける事は難しいものの、釣趣に
拘りを持つと言うからには、少なくとも自分自身の中では定義づけておかなければなりません。
何に拘るかの対象が曖昧ならば拘る術もないからです。拘るものが無ければ、ただ「釣り」
という「行為」に過ぎない。しかし、いくら釣果は二の次で大切なのは釣趣だ、と言ったところで、
やはり釣れなければ面白くないのも事実です。釣行日が近づくと気も漫ろになり、恰も遠足前夜
の子供のように浮き浮きした気分になるのは、当然釣果も期待しての事です。幾ら釣趣が大切
と言ったところで、一定の釣果が有ってこその釣趣です。前出の唐の詩人、張志和のように、
魚を釣るのが目的ではなく、釣趣を釣るのが目的であるとして、鉤に餌をつけなかったと言う
のは、やせ我慢のようにも映ります。釣趣に適度な釣果が加わってこそ充実した釣りが楽しめる

のだと思います。
同じように釣りをしていても釣れる人と釣れない人が出てきます。しかも釣れる人でも「釣った」
人と「釣れた」人では違う、などとよく言われますが、この違いとは何か。それは探求心なの
ではないか。この探究心も一種「拘り」というものに裏打ちされていると思われる故、やはり
釣趣しかり釣果しかり、拘りを持つ事はとても重要な事だと思うのです。釣れたら何故釣れたの
か、釣れなければ何故釣れなかったのか、その日その時の環境を客観的に分析し、自分なりの
データを蓄積する事はとても重要な事だと思います。そしてデータ通りに事が運べば、満足度も
頂点に達するでしょう。ただ、如何せん、釣りの相手は自然ですから、地道に積み重ねたデータ
が全く裏切られてしまう事も往々にしてあり得ます。これまでの思考錯誤や工夫、経験と言った
ものが泡沫に帰す、確立した筈の論理が頭の中で音を立てて崩れてゆきます。しかし、だから
こそ楽しいのですよ。いつでも必ずよく釣れる、というのであれば、私なぞはとうの昔に釣り
なんて止めていた事でしょう。何故なら、脳を使う必要が無いからです。釣果を求めて探究心
を維持して思考錯誤を繰り返し、しかも釣趣という情緒、風情を求める。これらは何れも脳に
於ける動と静の動きです。脳を使うから楽しいのであって、漫然とイトを垂れてもそれなりの
釣果が毎回必ず得られるのであれば、こんなにつまらない事はない。脳を使うなどと少々偉そう
な表現になりましたが、例えばポイントの事、仕掛けの事、餌の事などを考える、どうも芳しく
無い時に次の一手を考える、周りの風景に見入る、季節を感じるなどなど、それらは総て無意識
の内に脳を使っているのです。鯊釣り、真鮒釣り或いは手長蝦釣りに共通するのは、釣りそのもの

がとてもシンプルであるという事です。このシンプルと言う事は非常に重要でして、シンプルな
釣りほど技量の差が出るとよく言われます。それは何故か? この「シンプル」は英和辞典を引く
と実に様々な日本語に対応します。日本語が表現豊かな言語である証拠ですがここで言うシンプル
とは、どちらかというと、「単純」という意味合いであり、「簡単」と言う意味ではありません。
手長蝦・真鮒・鯊、すべてに共通するのは、仕掛けの単純さ、釣りの単純さです。ならばそんな
単純な釣りにどうして夢中になれるのか、単純な事なんてすぐに飽きてしまうのでは無いか?
確かに物理の世界では「単純=単調=簡単」という式が成立するかもしれませんが、実は単純な
ものと言うのはいくらでも複雑に出来るのであって、これこそが人間に与えられた特権だと思い
ます。
例えば人気スポーツや娯楽と言うのはそのルールが単純なものが多い。ゴルフなど地面に置いた
動かないボールを棒で打って、前方の穴に入れるだけの競技です。それだけなのに、ゴルフと
いうものがこれだけ普及したのは何故か?それは単純だからです。相撲も野球もサッカ−も、

ボーリングもそうです。人間は単純な事を複雑にする能力があるのです。その能力が及ぼす
作用は或る時はプラスの方向に、或る時はマイナスの方向に働き、常に一定しない、だから
結果も一定しない。一定しないと言う事は不安定だから、安定を求めたくなる。当然プラスの
方向に安定させたくなる。だからその為にどうすれば良いのか悩み、考え、工夫する。
それが人間の特権なのだと思います。それこそが試行錯誤や分析という極めて重要な要素に
繋がるのだと思います。にも拘わらず、時として結果は裏切られるのです。だから面白いのです。
釣りはその構成要素や因子、環境と言ったものの単純な集合体ではなく、それ以外のなにかが
ある。その「なにか」こそが単純な釣りをして複雑ならしめる部分であり面白さなのだと思い
ます。だから、構成要素や因子、環境に対して個別に科学的なアプローチは出来ても、釣り
そのものは科学では割り切れないのです。プロボーラーでも300点のパーフェクトは滅多にない、

プロゴルファーでもホールインワンなど滅多にない、プロ野球は生涯平均打率3割で一流選手です。
いろんな角度から個別に科学的なアプローチは出来ても、全体はその総和でないのです。同じ様
な仕掛けを使っても釣れる人と釣れない人が居る。それを「腕の差」で片付けてしまえば元も子も
ないのです。何も考えずに漫然と100回釣りをしても、得られるものは結果だけであって、
それは経験とは言えませんし努力でもありません。良く釣る人ほど普段から地道な努力をし、
頭を使っているのだと思います。それこそ正に趣味を楽しむ姿だと思います。

111008

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